8匹目  犬の自由、猫の不自由


スペインでは6月が学年末、23日から長い長い夏休みが始まります。夏至を迎えてやっと正式に夏を迎える訳ですが、この頃はもうバルセロナでも連日25度を越えていて、日々長くなっていく午後の陽射しと、試験も終わり夏休みを目前にした何とも言えないあの浮揚感がこのスペインと言う国全体を昂揚させています。
girasol.jpgそして6月24日は「サン・ジョアンの祝日」、その前夜祭として23日の夜はおおっぴらに爆竹や花火を打ち上げて夜通し騒ぐ、カタルーニャ、バレンシア地方の夏祭りの日なのです。これにはむろん夏を迎える為の邪気払いのような意味があるのですが、夏中いつでも花火の買える日本とは違って、スペインではこの「サン・ジョアンの祝日」の為にだけ、その2週間ほど前から花火を売る小屋が設置され販売が許可されています。以前は村の普通の家並みの中に店が開かれましたが、近年安全の為に花火小屋は隔離され、広場や公園の一角に鉄柵を巡らせた掘建て小屋が設営される様になっています。むろん14歳以下は大人が付き添わないと買えません。これは爆竹の爆発力が非常に強く、時には指を飛ばしたり目を潰したりと言う事故に至る事があるからです。毎年そういった記事が必ずと言って良い程新聞を飾り、話題になります。私の仕事仲間のヌリアも下の息子が14歳の時に、お隣のオジサンが投げた爆竹が耳元で爆破、鼓膜が破れるという事故に見まわれました。決して子供だけの楽しみではなく、この日は老若男女、花火と爆竹に明け暮れるのです。一日に使われる花火は平均で2万から3万ペセタ(15,000~23,000円)だというのです、各家庭でですよ! 特にバレンシアは消費がぐんと多いとか。スペイン三大祭のひとつ「バレンシアの火祭り」は爆竹に明け篝火に終る、なんとも騒々しいものですが、この夜もあの街ではすざましい爆竹の音が夜中止む事がないのではないかしら。

さて、この夜は街の辻には篝火が焚かれ、邪気を払う魅惑的な紅蓮の炎が空を踊る姿は、不思議に心引かれる原始の力があります。そしてこの日は犬にとっては受難の日。このところ犬友広場の仲間も寄ると触るとその話です。異常なほどに神経質になるから、うちの子には睡眠薬を飲ませると言う人もいますし、別荘に避難すると言う人もいます。もっとも別荘へ行ったって、余程の人里離れた山の中ででもない限り、この日ばかりは爆竹の音を根絶する事はできないでしょうけど。犬友広場にも子供達が爆竹を持ち込むようになりました。犬たちが神経質になるのを承知でやる子達もいます。中でも茶ラブラドールの「ブバ」の飼い主の兄妹は、こういう猥雑な事が大好きらしく、エバ(エバのルアーはとても神経質なタイプ)やモンセが止める様にと言っても、ちょっと離れるくらいの遠慮しか見せず、爆竹を広場で鳴らすので皆が迷惑顔をしています。その両親も側にいるのですが、別に止め立てする訳でもなく話に夢中で、子供が勝手に何かやっててくれたほうが邪魔にならない、と言う態なのです。

ベルは幸い爆竹にも神経質になることなく(耳が聞こえないんじゃないでしょうね、と心配でもあるけど)元気に遊んでいますが、やはり爆発に巻き込まれるような事があってはと気が気ではありませんから、フウも私達も常に目を光らせていなくてはいけません。
「全く、どういう躾をしてるのかしらね、あそこの親は」
「いい私立の学校に行かせてるのに、あの上の男の子の喋り方ときたら。親は分ってるのかしらね」と、結構辛辣に言う人もいます。確かに上の男の子(フウと同い年)の喋り方ときたら、音がずるずるスラング過ぎて聞き取りにくく、服装を見ないままだと、まぁ私立のいい学校に行ってるとは、ちょっと思えませんね、はっきり言って。バルセロナではある程度余裕のある家庭の子はほとんど私立学校へ行かせるようで、これは公立の学校は選択肢が少ないのと、やはり荒れている場合が多いからです。特に下町区になるとほとんどがアラブ系や中国系の移民で占められており、早くから麻薬などが入りこむ要素が高いのです。

 フウはフウのやり方で、ブバ少年ともそれなりの付き合い方をしているようですが、もう一人同じ年の男の子がいて、こちらはトビーという黒のパストール・ベルガ(ベルギー牧羊犬)の飼い主で、私に何処の日本食レストランが旨いか聞きにきた事があります。
「日本食、好きなの?」
「うん。アメリカにいた時に食べたんだけど、お寿司とか大好きだよ」
 彼ら家族は早速私が教えたレストランに食べに行ったと、後で報告してくれましたが、この子はなかなかに感じの良い話し方で、品性良好。彼の話すカステリャーノ(スペイン語)は音が非常に澄んだ感じなので、きっと親はカタラン人ではないのかも知れませんね。因みにカタラン人の話すカステリャーノは、音が少し濁っているのです。カタラン語にはやたら「シャ」という音が多いのですが、これが混じっているせいなのでしょう。「シャシャシャシャ」言ってるように聞こえる、何て事をカタラン人の友人に言おうものなら…。

campo.jpgバルセロナを中心とするカタルーニャ地方には、カタラン語という独自の言語があります。もともとは俗ラテン語からほぼ同時期に派生したイタリア語やフランス語、スペイン語やポルトガル語等と姉妹語な訳で、方言ではないのですが、カステリャーノ語=スペイン語(中央体制派)対、カタラン語、バスク語、ガリシア語という地方毎の文化を背負ってきた少数派言語(反体制的)という図式が何となくあって、迫害という暗い過去を持っています。カタラン語はどちらかというとフランス語やイタリア語に近い気がするし、ガリシア語からポルトガル語が派生したという見方もあります。(この中で謎の言語といわれるバスク語は、西欧南欧における唯一の非インド・ヨーロッパ語)これらの言語は歴史と根強く結びついている訳で、もともとローマの侵攻によりラテン語が広まり派生したのですから当然ですが、それぞれがかつての支配区を今も統括している面があって、たとえばカタラン語は南フランスのルシヨン地方、アンドラ公国、マジョルカ島などのバレアレス諸島、バレンシア、そして不思議なことにイタリアのサルジニア島に残っています。

 しかし今本当に正確にカタラン語を読み書き出来る人というのはどの程度なのかなぁ、と思ってしまう事もあります。フランコの軍事政権によって支配されていた間は、いわゆるスペイン語の使用が強要されていたので(フランコはガリシア出身だったのでガリシア語は禁じなかったそう)、それ以外の言語は教育の場で使用される事がなく、カステリャーノ語と語源を同じくするカタラン語はまだしも、バスク語というのはこれで壊滅的にやられてしまったようです。家庭の中では使い続けたというカタラン魂の家庭が圧倒的に多いのですが、それはあくまでも会話と言う形での俗語であり、文法を学んでいない為に読み書きが出来ない世代、つまり独裁政権下に学校教育を受けた世代が、今の時代を支えている訳ですから、文法的な過ちがかなりあるのは仕方がない事なのかも知れません。例えばベルの血統書名GESAMIは、正しくカタラン語ではGESSAMÍと書くべきなのですが、カステリャーノ語(JAZMIN)の音と入り混じっています。(カタラン語でSSだと強く発音され、吃音のようになる)花ひとつとってもこうなのです。これら混合単語、混合文が流通してしまう背景には、スペイン語もカタラン語も分るが為に何となく妙だとは思いつつも、文法的確信がないが為に容認してきてしまった事があり、それがこれら混合語の定着への道を進めているのかも知れません。

もっとも、近年カタルーニャではスペイン語の迫害が進む傾向にある感が強く、時代に逆行している気がするのですが、どんどん閉鎖的になっていく感のするカタルーニャを思うと、逆に両言語がもっともっと交じり合って、カタラン人が大騒ぎするアイデンティティがいかに足場の弱いものか認識するのも良いのではないかしら、と思ったりもするのです。カタルーニャ州大統領がマドリッドで演説すると、スペイン語の同時通訳がされるって言うのも、不思議な国ですね。国会での議席の要をカタルーニャが担うようになって、この強気の姿勢はすっかり定着したみたいで、それはそれなりに評価されるべき事なのですが。スペイン語はスペインという広大な国における共通語という事すらも、許せないのでしょうか。カタラン人の友人たちは一斉にこう言います、人差し指を空に向けて。 「だって、長い間禁止され迫害されてきたのよ。自由を謳歌して何が悪いの」と。

現在公立学校はカタラン語とカステリャーノ語のバイリンガル教育を推し進めていますが、7割の小学生が実際に友達と話しているのはカステリャーノ語だと言うから、生粋カタランの大人たちの思惑とは外れ、ずいぶんと皮肉な結果となっています。正しく使い分けできない、両言語が混じっていく世代が今後ますます増えるのではないでしょうか。かつてカタラン語はスペインの中では「ポラコ(ポーランド語)」と訳の解らぬ言葉と蔑称されていたと言いますが、スペイン語圏の人たちは慣れると徐々に聞き取れるようになるし、文章読解に関しては大きな問題はないのですが、書く事と話す事は、かなり難しいようです。もう二十何年バルセロナに住んでいるアンダルシア出身の知人は、聞き取りは完璧に出来るけど自分は話せない、と言います。彼にとっては自分の言語カステリャーノ語を敢えて放棄する気もないのでしょう。同じ国の中にありながら、カタルーニャでは国内移民を区別しているように思うのですが、これが差別でないことを願います。

以前イタリアに旅行した際、フィレンツェで面白い光景に出くわしました。彼の地での2日目午後、夫は花の寺院の鐘楼に登ると言うし、私はフィジツゥィ美術館でボテッチェリが見たい、フウは久し振りにTVでも見ていたいと言うので、家族3人がそれぞれ別行動を取りました。長い美術館の列に加わっていた時のこと、私の後ろにはどうやらマラガ辺りから来たと思しき若者が3,4人、いかにもスペイン的に少し野暮ったい感じで賑やかに列を作っていました。そして私の前には30代そこそこ位の、ちょっとお洒落なカタラン人がやはり3,4人。カタラン人らしく少し気取っておしゃべりをしつつ、時にどっと騒ぐという、やっぱりお前らもスペイン人、という感じの会話を楽しんでいます。待てども列は遅々として進まず、「全くイタリアって言うのは能率の悪い国だ」とかボヤク声しきりの頃、「やぁやぁ、お待たせ」とカタラン語で賑やかに2、3人が登場、私の前にいたグループにちゃっかり合流したのです。これを見ていた後方のスペイン人若者たちから激しくブーイング(もちろんスペイン語で。そしてカタラン人は、モチロン、ちゃんと理解している)、しかし素知らぬ顔のカタラン人たちは聞こえぬ振りを押し通しつつ「ウルサイ子達ね」何て言い放ち、無視。そのうち自分たちの言語が通じないのかと、スペイン人若者たちは「何よ、あれ。一体何人?」「ポーランドとか?」なんて言いつつ、しぶしぶ諦め顔。それをほくそ笑みつつ見ていたカタラン人たち、よりおしゃべりに余念がなく、間にいた私はこの実にスペイン人的気質(騒ぎ立てるが諦めが良い)とカタラン人的気質(しぶとく譲らない)の寸劇を楽しんでいました。そのうちに「もしかしてあれってさ、カタラン語なんじゃない?」という疑惑がひそひそと囁かれたりして、おぉ、この先いかなる展開に?! その時、後ろのスペイン人若者の荷物が私に当り、話をしたのがきっかけで「わぁ、スペイン語話せるんだ? 何処から来たの?」と聞かれた際に、ちょっと茶目っ気を出した私は「バルセロナから来たの。カタラン語も解るわよ」とちらりと前方を見やると、私たちの会話を興味深そうに聞き耳立てていたカタラン人達が一様にギョッとしたりして、なかなかに愉快な時間潰しが出来たのでした。

antonia.jpgさて、そういったカタラン国粋主義的な面を嫌ってインターナショナル系の学校に行かせる家庭もあります。インターナショナル・スクールは宗教色がないからというのも、大きな理由だと思いますが。カッファの奥さんのマルガリータは、カトリック教国のスペインで一切の宗教色を嫌った進歩的な両親の考えで、当時独裁政権下で宗教の授業のなかった唯一の学校、フランス人学校で幼稚園から高校までを過ごしたそうです。この国で学校を選ぶという事には、人間としての生き方を問われる事でもあるのです。
「私はカタラン人ではないけど、やはりカタラン語は守られるべき言語だと思うわ。消えて欲しくはない」とマルガリータは言います。マドリッド生まれ(父親はカタラン、母親はマドレーニャ)ですが、幼児からバルセロナで暮らしてきた彼女は、家庭ではカステリャーノ語を、学校ではフランス語を、生活の中でカタラン語を学び話してきた、とてもリベラルな思想の持ち主だと思うのです。しかし、その彼女でさえ「迫害された言語は保護すべき」との立場を崩しません。無論私もカタラン語は消えていくべきではない、という意見に異存はありません。ですがあまりにも権威主義的にかたくなな態度を取る人が多いのは、気になるところ。カタラン語への迎合を唆すような、見えない圧力が日増しに強まってきたところに、このカタルーニャの暗い未来が暗示されていなければ良いのですが。閉鎖的空間の中からしか真の文化は生まれないのかも知れない、とも思うのですが。
「僕なんかもっと大変だったよ。14歳でアルゼンチンからこっちに来た時なんか、同じスペイン語でも向こうの言い回しとこちらの言い回しで混乱が起きてね、おまけにカタラン語も混じるし。でも、会話の中に毎日ひとつだけカタラン語を入れて話してみたら、みんなすごく温かく受け入れてくれてね。これがフランスじゃこうは行かないよ」
「ウゥッ! おフランス! ベルギーもよ! フランス語で話し掛けても、みんな解るくせに知らん顔するの! スペインはその点、寛容よ。多分イタリアも大丈夫じゃない? 私たち、ラテンだものね!」と、フランス人的に鼻をつんと上に向けて顔を顰めて見せるマルガリータ。それは本当です、ここスペインでは相手が片言でも自国語を話してくれると、とてもにこやかに対応してくれ必死に理解しようとしてくれる、そんな人たちが一杯います。これぞ「ラテン」なんでしょうね。

さて、無事にこの「サン・ジョアンの祝日」をやり過ごすと、もう爆竹はお終いかと言うとそうではないのです。サン・クガットの守護聖人「ペレ・サン」の祝日が27日の為、このお祭り気分はそのまま続きます。サン・クガットの犬にとっては気の毒極まりないのですが、街の広場には移動遊園地が出現し、カセタと呼ばれる屋台が建ち並び、子供達にとってはいやが上にも夏休み気分を盛り立ててくれる嬉しい日々が続きます。多くの親は夏休みの余りの長さと暑さとにへとへとになってしまいます。だって、共働きで親と一緒に住んでいない夫婦の場合、一体誰に見てもらえって言うの? と、言う訳で大概は6月末から7月一杯は、サマースクールがあちらこちらで開かれ、そこへ送り込む事になります。かく言う我が家もそう。8歳の時に初めて1週間のサマーキャンプに参加して以来(2年目は本人が希望して3週間も滞在)、10歳になった時からは一人で日本へ帰国し私の実家で過ごし、ひと月ほどして私が迎えに行くというのが毎夏の決まりになっています。今では親と離れて過ごすのが楽しくもあり、日本へ帰ればたった一人の孫、天下を取れる嬉しさもあり、今年はベルが来たからどうするのかなぁと思いましたが、やはり一人帰国の決意は変わりませんでした。
「僕のいない間、ベルのことよろしくね」と、言葉はやっぱりオーナー気取り。
「帰ってきたらフウの事なんて忘れてるぞ」
「訳ないよ、な、ベル?」
 初めて一人で帰る時は、見送る私達に涙を見られまいと柱の影でぐっと堪えて振り返ることなく搭乗ゲートへと、地上乗務員に連れられて行った息子も、今では「じゃ」と、軽いフットワークですたすたと行ってしまいます。頼もしいやら、ちょっと物足りなく寂しくもあり、親心は微妙ですが。まぁ、とにかく彼は行ってしまいました。ベルを任された私達、責任は重大かも。

 この頃になると、ベルもだんだんと身体が引き伸ばされ子供から少女の体型へと変わってきました。輝くような白い毛と黒のスポットの美しさ。気になる 500円お禿げは徐々にではありますが、毛が生え出て来ました。バルセロナ市街より山をひとつ超えた分、海から遠ざかり乾燥しているサン・クガットですが、日中の気温は連日27度を超えますし、朝も10時を超えると外を歩くのは辛くなってしまいます。どんどん距離を伸ばし始めたベルを連れて、森の中を分け入っていくのは楽しい事です。緑の濃い葉陰の中に輝く純白のbosque.jpg姿。こんなにも美しく愛おしい生き物を私はまだ見た事がありません。そしてベルとの散歩は私たちの健康にとっても大きな成果を与えてくれました。週に2回テニスをしても変わらなかった夫の体重が、何とベルが来てから7キロも落ちたのです。ただただ歩くと言うその事だけで。毎日早足で歩くこの森の散歩は精神を安定させ、しかも体調コントロールにも役立つ優れもの。私も一日のノルマを7千歩と定め、万歩計を付けて早足で歩きます。そして今までとは違って季節の移り変わりを、肌で感じる事が出来るのも喜びのひとつです。

 ある日、いつもとは違うコースで一面の向日葵畑に出会いました。毎年そこは青々とした麦が植えられている場所で、この季節なら既に麦秋、一面乾いたベージュに変わっている頃です。何故かこの年は向日葵に切りかえられた麦畑が多い様で、これはEUに入っての生産調整のため、休耕地に向日葵を植えた場合、政府から景観政策の援助が受けられるのだと聞いた事があります。もともと1年麦を植えたら次の年は土を休ませるという生産方法でやっている様ですが、それにしてもこんなに身近に向日葵畑があるなんて! 向日葵畑はスペインのイメージ写真に良く使われていますが、実際に車を止めて入れるような所はなかなかありません。私達がよく行くカダケス方面にやはり向日葵が多く見られますが、わぁーっと車窓から見るだけで、なかなかその中で写真を写すなんて無理難題なのでした。一面の黄色に囲まれて写真を写したい、というのが私の長年希望するシーンだったのですが、思いがけずもベルと一緒にそれが適うとは! ベルってやっぱり「ラッキー・ベル」なのかしらん。向日葵は私の腰丈ほどの小振りなもので、映画「ひまわり」のソフィア・ローレンの悲しみの顔とは違い、あくまでも明るい地中海の空と笑顔が似合うのでした。

 夕方になると、9時過ぎまで空は灰明るく残暑が退ける8時頃から、そぞろ歩きの人が夏を楽しみに外へと繰り出して来ます。私達の犬友広場はますます盛況で、すっかり仲間意識が芽生えるようになりました。モンセの犬が突然死んだ時もそうでした。彼女の「ティラ」が避妊手術を受けた直後、どうもその処置が悪かったのではないかと思うのですが、突然腸閉塞になり可哀想に二日後に死んでしまったのです。悲しむモンセ。だって母親と二人暮らしの彼女、50を過ぎて未だに独り身、何よりもティラを慈しんでいた、いわば犬友広場の中心的な人でした。ショックで落ち込んでいる彼女の話は直ぐに皆なに広まりました。これで彼女がもう広場に来なくなる事を惜しむ声も。その時、何と言うか神の配剤の妙と言いましょうか、犬友広場に捨て犬が迷い込んできたのです。体型的にはシェパードのような茶毛がふさふさと、ちょっと狐の様に見えるメス犬でした。犬友の一人テレサの犬「ルアー」にそっくり。彼女が家へ一時的に引き取り、そしてエバと彼女が熱心にモンセにアダプタション(里親)を薦めたのです。モンセは夏休みを利用して自分の手術を予定していたのと、ティラを亡くしたばかりで直ぐに他の犬なんて考えられない、と拒んでいたのですが、
「大丈夫。療養中はうちで面倒見てるから」と言うテレサの強力なプッシュと、やはり離れがたい犬友への思いがあったのでしょう、モンセは陥落。拾われたメス犬は「オナ」と名付けられ、現在もモンセの良きパートナーとして生活しています。

 この年、犬友広場に迷い込んだ捨て犬は5匹ほどにもなりました。バカンスが近づき邪魔になった人たちが、車で遠くまで連れて来て捨てて行くのだとか。また、マイクロチップが義務化された為、今後捨てにくくなると思った人が多いからだとも。捨てられた犬たちは広場や森をウロウロと徘徊し、いつ自分の主人が戻って来てくれるのか、待ちあぐねた様にお腹を空かしており、時々餌を持って行ってあげる他、どうしてもあげられない苛立ちに私達は傷つくのでした。バルセロナとサン・クガットを区切る山ティビ・ダボ。そこには犬の強制収容所があるそうです。連れて行かれた犬は8日間だけそこにいて引き取り手を待ち、そして処分されると言う、お決まりのやり方です。人間の無責任が生み出すどうしようもない不幸。

 ある日、テレサのお父さんと名乗る人がテレサの白テリアの「ビバ」を探して広場にやってきました。ちょっと目を離した隙に、門扉の隙間から外へ出ていったらしいのです。
「娘がバカンスで旅行中なんで、世話を頼まれているんだが、もし何かあったら大変な騒ぎだよ。見かけたらぜひ知らせて」と、青ざめた顔のお父さん。
「マイクロチップは付けてるの? だったら、誰か獣医に連れて行って知らせてくるかも。取りあえず警察に行って聞いてもらったらどうかしら、ティビ・ダボのペレーラ(犬収容所)に送られてないか調べてくれるわよ」と、モンセがアドバイス。あたふたと警察へ急ぐお父さんの後ろ姿を見送りながら、
「彼女が帰ってきてビバがいなかったら、これは大変な騒ぎになるわね」と、私達。おちびな「ビバ」は、なかなかの愛嬌もので、首に付けてもらった小さな鈴をちりちりならせながら、ベルとも良く遊んでいます。身体の大きさがかなり違うにもかかわらず、ベルはごろんと横になって力を制御しつつ、時にはビバがベルを押さえ込んだり、上手にじゃれ合っています。
「とにかく、あのペレーラはホント、ひどい所よ」と、スティンキーの飼い主ラウラとクリスチャンが顔を顰めます。シュナウザー系のスティンキーはペレーラから貰われて来たのです。
「一目惚れよ。毛とか汚れ放題だったけど、目と目が合った瞬間、もう“この子しかない!”って感じだったのよね。早速獣医に連れて行ったら“この子は手入れすればとってもいい犬”って言われて。“でも、これでも十分グアポだけど”って言ったんだけど、でも、ホント。散髪したら見違えちゃったわよね、スティンキー?」と、ラウラが顔を覗き込むとぴょんと立ち上がるスティンキーは、以外や誰にでもおしっこを引っ掛ける技あり犬なのでした。私も一度ベルの飼い主にもちょっと挨拶しておかないと悪いか、って感じで「ややっ、この温かさは何? 何?」とやられた事があります。
 犬友広場の仲間一同、大変な心配をしたビバ家出騒動は、結局マイクロチップの照合から連絡があり無事に犬収容所からビバは救出され、犬友一同ホッと胸をなでおろしたのでした。早速ベルにもマイクロチップを付けなくては。

 7月に入ると、ペパの所からワクチンのお知らせが来ました。やっと6ヶ月になり、狂犬病のワクチンを受けるのです。むろんマイクロチップもこの時に入れてもらう事にします。ちょっと太目の注射器を首のところにグサッと差し込み、注入完了。思ったよりも負担はなさそうでホッとしました。無事に番号が読み取れるかを検査して、番号シールをベルのパスポートに張ってもらいます。これは獣医学会の方にも登録され、コンピュータで何処からでも照合できるのです。これによって捨て犬、迷い犬、そして盗難の予防にもなります。また世界を旅行する事もできるようになりました。このマイクロチップ制度導入により、厳しかったイギリスのペット法が変わり、犬を持ち込む事ができるとも聞きました。ベルや、これでお前も一人前ですね。

 森へ行くとベルは松ぼっくりが大のお気に入りで、沢山齧って食べていますが平気なのかしら。一応毎日うんちの状態は目で確認するようにしているけど、何とか完全消化しているみたいです。松葉エキスが身体にいいという記事を読んだか見たかした夫は、
「松ぼっくりは身体にいい筈。森が大好きな森子だな」と、松ぼっくりを投げては取りに行かせるのですが、持って来なくてみんな齧ってしまいます。森子と言うのは女の子が生まれたら付けようと思っていた、私達にとっては思い入れのある名前なのです。
「フウにだってスペイン名があるんだから、ベルにだってあってもいいよな」と、すっかり鈴木ベル・森子になってしまいました。しかしその名の通り、毎日森を走るベルはぐんぐんと成長し、パワーアップさせています。犬友広場でもじゃれ会う相手は沢山いますが、ベルに負けないパワーで疾走できる子はほとんどいません。もっと、もっと走りたいのに! そう叫んでいる様にも思う程、ベルは誰も付いて来られないほどの情熱を内に蓄え今日も疾走しています。ぐるぐる回る犬の輪。そこから突然バッと抜け出しベルとクゥニーが駈け抜けて来たかと思うと、犬友と話していた夫の後ろ膝を直撃。両足を空に向けどぉんと転ぶ夫、駈け抜けて行く二匹のダル達。まるで夢でも見ているようです。
「すごいね、ベルの走りっぷりは」と、コレッチャおじさん。同じダル同士、ちょっと臆病なクゥニーもベルとは本当に仲良しで、顔を合わすと走っています。毎日の様に会っているのにクゥニーは他の人に身体を触らせたりしません。手を出すと怖じ気付いた様に後すざりしてしまいます。ところがベルときたら、とにかく誰彼見境なく頭を撫でて貰いたくて仕方がない様で、ちょこんと座っては頭を差し出すと言うのがお得意のポーズ。彼女はこれで随分得をしていて、誰からも可愛がってもらえるのです。小さな子供達には、わざわざ腰をちょっと屈めた低い姿勢で頭を差し出しています。ダルって、本当に子供の人気者。しかもこんな風に触らせてくれたら、私が子供だとしても嬉しくって嬉しくって、さっきの子供の様に「ダルが欲しい!」と駄々をこねてしまうのではないかしら。

agua.jpgさて、こんな風にベルは元気で幸せそのものでしたが、春からの風邪がなかなかすっきりとしなかった猫たち、キキからフェリへ、フェリからキキへを繰り返し、ついに生命力の差が出たのか免疫力を付けたキキは二度と風邪を引く事もなく、それはフェリックスの中にまるで怨念の様に黒々と溜まっていったのでした。薬を飲ませ様としても拒むばかり、やっとの思いで注入しても吐き出してしまいます。そして何処かに隠れて引っ張りだそうにも出せない始末。こうなればそれこそ首根っこを押さえるようにしてでも病院に連れて行くしかありません。ペパの所でレントゲン撮影の結果、肺炎の可能性があると言う診断です。可能性、と言うのは鼻が詰まって鼻水が溜まっているだけと言う事も考えられるのだそう。取りあえず入院処置を取り、一晩預ける事にします。鼻水を出しやすくするような薬を与え酸素吸入をしながら様子を見ると言う事ですが、翌朝言ってみるとそれが効いたのか少し呼吸は楽になっています。ですが両肺が黒いのは変わりません。もう少し鼻水処置がうまく行けば、とペパは言ってくれましたが、11歳と言う年齢も考え合わせ、片肺を取る大手術をしても果たしてどのくらい生きられるものか。もう一晩、フェリックス生存の望みをかけて待つ事に。

 翌朝、危篤状態のフェリックスを前に、ペパが薬での処理を薦めます。
「痛みなんか何も感じないのよ、ただちょっと眠くなったなぁ、って思うだけよ。本当に深い眠りにつくだけなのよ」と、ペパが慰めてくれます。獣医と言うのは過酷な仕事ですね。
「どうする、一緒にいてやる? いいのよ、向こうに行っていても」
「ここにいるわ、最後まで」
 11歳のフェリックスは、私が撫でてやると少し落ち着くのか、静かに横たわっています。断末魔の痙攣も何もなく、ただすぅっと寝息が消えていっただけでした。彼が私たちと歩んだ第二の人生は、幸せだったのでしょうか。元の飼い主と一緒に鶏のささみだけを食べ、バルコニーにも出ず、他の猫とも会わないまま長生きする人生もあったかも知れない。キキと一緒に何匹もの子猫たちに恵まれ、テラスで日向ぼっこをしこの世の春の如く天下を謳歌していた彼が、よもや晩年になって「ベル」に押しのけられようとは、思っても見ない事だった筈です。

 ペットが死ぬと、市に届け出て処分を委ねなくては行けません。仲良しのペパが泣いている私に、
「私は知らない事にしてるから、連れて帰っていいわよ」と言ってくれました。私たちはフェリックスの遺体を引き取らせてもらい、森の中の麦畑脇にお墓を作りました。硬い硬い土でした。乾燥しきった赤い大地に窪みとしか言えないような穴を、夫が黙って掘ってくれました。土を被せてやると、涙が後から後から止めどもなく溢れ、犬に掘り返されない様にと夫が探してきてくれた石を置くのを、ただ泣いて見ていました。持ってきたトルコ桔梗の花束を供え二人で手を合わせると、ここからはフェリックスが生涯見る事のなかった自然が彼を迎え入れ、やがて彼も自然に戻って行くのだと思う事が、慰めとなるのでした。

 その夜、フウから電話がありました。ベルにマイクロチップを入れた事など報告した後で、フェリックスの訃報を伝えます。息子は息子なりにベルにみんなの関心が移ってしまい、フェリックスが不貞腐れていた事をすまなく思っているのです。
「可哀想だったね…」
「うん。帰って来たらお墓参りしようね」
 でも、この頃から私はもう二度と猫は飼うまい、と思うようになりました。大の猫好きとして知られ、ずっと猫と暮らし、猫のいない生活は本当に生きているとは言えない、と言い切っていた私が? そうです。きっと庭のある家にでも住まない限り、私はもう猫は飼えないでしょう。猫が嫌いになったのでも、犬好きに変わったのでもありません。猫は今も好きだし、犬好きと言うよりはベルが好きなだけではないか、とも思うのです。もともと動物が好きで、小さい頃になりたかったのは獣医の奥さん、しかもアフリカの動物学者風な生活が憧れだったのですが、私がずっと飼い慣れた猫たちは、家と外とを自由に行き来していて、その頃は鎖に繋がれたままの犬を哀れに思う方が強かったのでした。ですが、マンションで飼う猫というのは根本的に違います。家の中だけで、テラスがあればマシな方、一生外の世界で自由に遊ぶ事もない人生なのです。それに比べベルはどうでしょう。僅かな散歩の時間を楽しみに生きる、鎖に繋がれた犬とは違います。彼女は家族として家の中で暮らし、森に放され自由に走っています。紐で繋がれるのは街の中を歩く時だけ(それさえ自由にされている犬も一杯います)、銀行にだって郵便局にだって一緒に入って行くし、旅行だって一緒です。この国では犬は大いなる自由を得ているのでした。

 そもそも私が犬と猫に持っていたイメージと言うのは偏見に満ちたものだったのではないかしら。猫=自由、反体制的、犬=束縛、体制的。でも、本当のところはどうなのでしょう。犬も猫も人と暮らすペットであれば、守らなければならないルールは当然同じな訳ですよね。そしてマンションで暮らす私にとって、この囲いの中だけでしか生きられない猫の方が不自由なのではないかと思うようになったのです。そして何より、何処へでも一緒に出かけられるという犬の自由さ (むろんお行儀が良くなくてはいけません)が、今の私にはより一層魅力的に映るのでした。あの猫好きが! と驚く向きは多々あるかと思うのですが…。人間って幾つになっても変わるものなのです!

 フウのいない夏休み、フェリックスがいなくなり(残されたキキは大して気に留めていないようです。後家は身勝手で冷たいものだ、と言うのが私たちの一致した意見)、そしてついに私も。と言うのも、フウを迎えがてら3週間遅れで私も日本へ一時帰国。ベルは夫に預けて帰ります。ほぼひと月、夫はベルとお留守番です。皆なが揃ってから家族の夏休みでピレネーに行く事になっています。ベルに会えるのは4週間後、空港へ迎えに来てくれる事になっています。元気でね!