3匹目  ぶりぃーだぁ~?


こうして冬が穏やかに過ぎ、春がやってきました。ベルを引き取れるのは10週過ぎてから、とビセンスに言われていました。それまでは未だ母親の愛情が必要であり、この期間に兄妹たちと如何に遊んで過ごすかが、その後の性格に大きな影響を与えるそうです。ごく幼少年期にしっかりと兄mama.jpg妹と遊び、そこから力関係を学び取っていく時間が必要なのですね。そしてそれは母親の愛情に見守られてこそなのでしょう。一月半ほどで親から離されペット・ショップのケージに入れられる仔達とはやはり違いが出てくるのは当然なのかもしれません。

mama.jpgもう間もなくベルを引き取れる日が近づいて来ています。少し前から犬を飼い始めた神谷さんに、犬の飼い方について色々情報を得ようと、お犬拝見に覗いました。神谷家の小型ダックス・フンドのオス“ジェイ”は、本当に小さい。つやつやと綺麗な焦茶色の短毛に、目が顔のバランスから言うと信じられないくらいに大きくてしっとり潤んでいるのです。そんなうるうるした目で見上げられると、あら、どうしましょという感じ。お客好きらしくクルクル回って喜んでいます。このジョイはやはり近所に住むある日本人夫婦のお家で生まれた子で、実は近々また生まれるからそれを貰ってはどうか、と以前に一度神谷さんが知らせてくれた事があったのです。そしてこのジェイの親元とは、私たちと不思議な縁があったのです。

 ある日、獣医のペパから電話が掛かって来て、
「日本人の患者が来てるんだけど、スペイン語も英語も出来ないのよ。悪いけど電話で通訳してくれない?」と、頼まれると言う事が三度もあったのです。日本から来たばかりの企業の人だろうと思っていたのですが(その時点では名前も、犬の種類も知らなかった)、それがジェイの親元で日本人学校に赴任中のダックス先生夫婦だったのでした。ペパの説明では、その犬は皮膚病に掛かっているので薬を塗るように、との説明でしたが、実は度重なる妊娠が原因で完治しないらしいという事を、後になって知りました。その後暫らくしてから神谷さんの引き合わせでこのダックス夫人に会いましたが、私が「ブリーダー」なる言葉を初めて聞いたのは彼女からでした。まだ20代後半の若い人ですが、
「日本にいた頃はわたし、“ぶりぃーだぁ”だったんですぅ」と、言われて、無知な私は、何その“ぶりぃーだぁ”って?
「ダックス・フンドのカップルを持ってるんですけどォ、サカリの時にオスがうまく乗っかれないもんでェ、後ろから支えてやるんですゥ。はい、サカリ毎に産ませて仔犬を売ってたんですけどォ、ここだと日本から血統書を取り寄せるのが面倒らしくてェ、血統書ナシなんで貰ってくれる人を探してるんですゥ」
jjo.jpg へェ、じゃ仔犬を産ませて売る人をぶりぃーだぁ、って言うのかぁ。と、私は初めて意味を知ったのでした。日本では「繁殖家」と呼ばれてるんですってね。ベジェスたちを見ているとこちらではむしろ「親元」って言う感じがしますけど。早速家に帰ってこの話をすると、
「何、ぶりぃーだぁって?」と、夫も同じ反応。
「ポケモンと一緒だね、ぶりぃーだぁじゃなくて、ブリーダーだよ、お母さん」と、フウ。
「あ、なるほど。そうか、ポケモンだとそう言うわね」
「でもすごいね、サカリの度に産ませてるなんて。しかも手伝いまですんの?」
「ね、そう思うでしょ? ペパがそんなだから皮膚病が直らないって、怒ってるみたいなんだけど、一向に気にしないで、大丈夫大丈夫、なんて言ってるらしいのよ。それでね、ちっとも外の散歩をしないんですって。小さいから家の中だけでも構わない、なんて言って。おしっこはテラスでさせて、匂うじゃない、近所から苦情も来てるらしいけど」
「ふ~ん。犬を飼ってて散歩をしない、って何なんだろうね。散歩が楽しいのに」
「ねぇ?」と言う経緯があったのは、もう少し後の初夏の頃でしたっけ。

さて、神谷さん宅の居間にはジェイ用のケージが置かれ、中にトイレが設えてあります。トイレは日本で買ってきたペット用の給水シーツなるものが敷いてあるそう。何度かは使えるけど結構高い、残念ながらスペインでは探したけど見つからず、介護用のオムツなんかが代用に出来るのではないかとの事。

「雨の時とか便利よ。それに小さいうちはお散歩行ってもおしっこしないのよね。我慢して帰ってきて家に着いたらいきなり、なのよ」
「エーッ、そうなの? 犬って外でおしっこするものだとばかり思ってたわ」
「ジェイなんか、やっとこのごろ足を上げてするようになったけど、それもなかなかだったのよ」と、聞くこと全て耳新しい事ばかりです。
「それでね、日本の躾ビデオを見たらね、3ヶ月までは家の中で、しかもダンボールの箱に囲っておく様に、ですって」
「エ? 躾ビデオなんてものまであるの? 日本って過剰だわね」と、さらにびっくり。一番可愛いやんちゃの時期を、ケージならまだしも外が見えますが、ダンボールの閉じた狭い空間で過ごすなんて、その後の性格を人見知りな犬にしてしまうのではないかしら。


jardin.jpg10 週を過ぎると仔犬たちはちゃんと自分で餌を食べられるようになっています。ちょうどその頃は春休みに入り、フウがずっと家にいてベルと一緒に過ごせるという、願ってもないチャンス。毎年春休みは日付が変わりますが、これは復活祭に合わせて変動する為で、今年の春休みは3月20日から。そしてこの日が私達のベルを引き取りに行く約束の日です。私達、今年は何処にも行かず春休み中ずっとベルにくっ付いていようと決めていました。たった一度きりのベルの成長を見逃すことなく一緒にいたいのです。真新しい犬用の大きなクッションが居間の陽だまりの中、ぬくぬくと仔犬の到着を待っています。キッチンには食事用とお水用のお皿が用意してあるし、もちろんそのお皿はベジェスに教わった通り、飲み込み下手のダル用に小さなテーブルの上に置かれています。準備はみんな整っているように見えます。朝から全員そわそわ気分が抜けず、何度も時計を見ます。実は今日、バルセロナのジョブレガット市で行われているエクスポジション会場でベジェス達と合流し、そのままベルを迎えに行く事になっているのです。約束は12時辺り。そろそろいいんじゃない? バッグの中には去年のクリスマスに用意した赤い首輪と皮の引き紐。抱きかかえてやれるようにと古いタオルを手にしたフウが、「早く、早く」と急きたてています。無理もないわ、待ち焦がれたお誕生日プレゼントですもの!

 会場は見本市なども行えるような大きな体育館といった感じで、ショッピング・センターの中にあって、ここには以前に一度、漫画の見本市に来た事がありますが、今日はちょっと勝手が違います。まず入場券を買って中に入ると、そこには柵で区切られた幾つもの“リンク”と呼ばれる、いわゆるステージがあって、通路にはペット・フード業者のスタンドなども点在しています。お昼が近いせいか人は思ったよりは多くありません。ぐるぐる回っているうちにどうにかダルを遠くに発見。ビセンスとジョーです。相変わらず誰かを捉まえて長話に夢中のようですが、サルゥとおちびのライムは見えどもマニュエルがいません。近づいていくとサルゥが何時もの様に両手を大きく広げて迎えてくれます。残念ながらダルの部は終わってしまい、勝ち残ったジョーは午後のグループ賞の為に残っているのだ、との事。エキスポジションなんて初めての私たちは、見るもの聞くもの大珍し。例の如くビセンスがあれこれと説明してくれるのですが、仕組みそのものが頭の中で組み立てられないのと、エキスポジション(ドッグ・ショー)自体にさほどの関心もなかった訳ですから、もうひとつもふたつも解りません。何だか分んないけど、
「やっぱりジョーはすごいね」というところで、家族全員納得。

今日は私たちの他にも仔犬を引き取りに来る人がいるとかで、マニュエルは食事の用意をしつつ自宅待機だそう。それにしてもジョーの落ち着いている事。ドゥルスバのスターに対して、彼の売り名は“ジェントルマン”。やさぐれボクサー風な見かけとは違って誰とも争わず、メスに対しても飽くまでも礼節を持って接するという、イギリス紳士なのです。他の犬が横を通ろうが動じる事なく、飼い主の度重なる長話に呆れ顔もせず、もうすっかり鍛えられているといった様で王者の貫禄なのです。フウと私がさっきから撫でまくり攻撃をしているにもかかわらず、ジョーは礼儀正しくぺろりぺろりと顔を柔らかくなめてのご挨拶。う~ん、惚れ惚れしてしまう!


犬の大会なのですから当然色んな種類の犬がいて、ごくごく常識的にシェパードやゴールデンレトリバー程度の犬知識しか持たない私は、まぁ世の中にこんなに犬の種類があったとは、とこれはこれで新鮮な驚き。あちらこちら覗いているうちにおちびのライムがぐずり始め、サルゥが一足先に私たちと一緒に家に帰ろうという事になりました。
「どうせグループでは勝ちっこないからね、待っていても退屈なだけだよ」とビセンスも言うので、早くベルに会いたい私たちは喜んでその申し出を受けることにしました。

 もう通いなれた道です。セルベラというカモシカをマークにした村は新興の住宅区が松林の中に拓かれています。うねうねと蛇行した道を登って着くと、留守番役のディジーとドゥルスバが車の音を聞きつけ早速玄関の門の処まで来ています。暖かい春の日。緑の芝生の庭で仔犬が三匹転がるように走って来ました。ベルとベジェス家に残るメス、そして目の色の違うメスの3匹。オスたちはそれぞれ既にお迎えがあったり、イビザ島へ飛行機で送り出したりと、引き取られた後です。今日は午前中にピネダ・デ・マールの夫婦が一匹引き取っていったそう。ベルもいなくなるから、残るのはメスが二匹です。
「この子はいつ引き取られるの?」と、私は目の色の違う一番の多いメスを撫でながら尋ねました。目の色が両目で違うというのは、非常に不思議な感じがします。片方は明るい茶、そしてもう片方が薄い青。アデが飼っているメス猫のネカもそうですが、ちょっと捕らえどころのない軽快さと、何処を見ているのか妙に現実離れした雰囲気が、謎めいて見えるのです。
「それがね、ひどい話なのよ。覚えてる? いつかあなたたちがいた時に見に来た奴ら、ほら、毛皮なんか着て香水の匂いぷんぷんで」と、サルゥが、まぁ聞いてよ、と始めます。
「そうそう、ワーッと来て騒いで帰った奴らだよ」と、マニュエルまでも。ハイハイ、覚えてますとも。あんまり感じ良くなかった人たちね。
「ピホ(成金)のおばさんたちと孫どもね?」
「そう、あいつらよ。いつ引き取りに来るのかって問い合わせたらね、結局目の色の違うのは血統書も出ないから嫌だ、って言うのよ。失礼だったらないわ。自分で選んでおいてよ、別にそれきり見にも来ないで」
「彼らなんかエキスポジションに出す訳じゃないんだから、ペットとして飼うには何にも問題ないんだよ」
「まぁ、じゃぁどうなるの、この子?」
「あら、心配要らないわ。別な貰い手はすぐ見つかるわよ、それは大丈夫」
「でも、失礼な話ね」
「やっぱりピホだったな」と、夫も相槌。
「却ってそんな人たちのところにやらなくて良かったわ」と、サルゥ。子供たちの行き先はやはり親元にとって心配の種なのですね。

fu.jpg四段に分れている庭の中段にバーベーキュー用の造り付けの炉があって、薪の燃えるいい匂いがして来ます。お料理上手のマニュエルがバーベキューを食べさせてくれるというので楽しみ。仔犬のお遊びようにと持ってきたお古のテニスボールを投げて遊び始めると、意外や最も熱くなるのがディジーなのでした。ドゥルスバはもうそういう事には興味がないのか、ほとんどサロンのソファで寝ています。たまに仔犬たちがじゃれつきに行くと、「うるさいわね」と唸って追い散らしています。
「歳を取るとだんだん気難しくなる」と、マニュエル。でも、相変わらず彼女は美しい。その横顔の端正な事といったら!

 今日は春うららですから、一段上の庭に食卓を用意します。お肉もいい具合に焼けた頃合に、ビセンスとジョーが帰って来ました。手には小さめのカップを持っています。グループで3位だったそうです。彼らの居間には代々のカップが所狭しと並べられていて、もう隙間もないほど。実際古いのは仕舞ってあるらしい。菊型のリボンは猫のキリのもの。やはり壁に一杯無造作に吊り下げられています。カップも色々あって、青いガラスのとても素敵なのはフランスの大会でのものだとか、それらにまつわるお話も面白いのです。面白おかしく伴う悪口が、ベジェスたちの面目躍如といったところ。

 お酢を使わないさっぱりとした春のサラダ、このオリーブオイルはもちろんエキストラ・バージンで自分たちの生まれ故郷カステジョンで、従兄弟が作っているものだとか。カステジョンの農婦だったお祖母さんが、日曜の礼拝に教会に行ったら席がなかったのは、寄付金をしなかったからだと分って、神なんか糞喰らえと、それ以降もう二度と教会へ礼拝には行かなかった、という話をちょっとアナーキーなベジェス兄弟が自慢げに話してくれました。教会は搾取の仕組み、と言い切る彼ら。フランコの片棒を担いでいた時代が長かったのは本当です。彼らの生まれ故郷カステジョン地方に未だ叔母さんや従兄弟が住んでいるらしいのですが、父親がこの近くに住んでいる、と聞いてびっくり。但し彼らの実母はもう亡くなっており、父親が再婚してから行き来はないらしいけど。

「カステジョンの家を勝手に売って、再婚した女と別な家を買ったんだよ。あの故郷の家は母親の物でもあったんだから、自分たちに相談なく勝手に彼一人で売っていい筈ないんだ」
「それきり付き合いはないね」と、二人。何となく複雑な家庭の事情を、こうもすっぱり割り切ってしまった彼らの手口に、私は少々複雑な思い。また、母系家族を基本とするスペインでは、母親が死亡した後の家族の繋がりは希薄になるのかもしれませんね。サルゥも然り。

 ダルが始まりで知り合い、離婚をしてまでマニュエルの元に来たというサルゥ。もともとはイギリスの有名なドッグ・ショーに出かけた際にそこでビセンスとは同国人という事で挨拶を交わし、ビセンスとは既に顔見知りだったとか。小型犬を育てていたサルゥ、ダルへの切り替えを期し仔犬を求めて初めてこの家に来て、マニュエルと恋に落ち(?)押しかけ女房になったらしいのです。サルゥは九人兄弟の末っ子、カタルーニャ州のジロナ県、サルバドール・ダリで有名なフィゲーラス近くの小作農の家で生まれ、母親は多産が祟ってかサルゥを産むと間もなく亡くなったそうです。やはり父親が残っているけど、こちらも再婚しており行き来はないとの事。こう言う話って、よほど親しくないとしないように思うのですが、私たちとベジェスって既にそういう垣根も無くなっているのかしら? いずれにしても話がわーっと脈絡無く続いたり、チャチの入れっこがあったりと、気を入れてないと訳が判らなくなってしまい易いので、夫は疾うにさじを投げた感じでハンモックで昼寝なんかしています。まぁ、そうでしょうね。私たち夫婦はこういう、いわゆる「内輪話」って得手ではないのです。

 まぁ、こうして賑やかに会食も終わり持参のフルーツケーキのデザートも終わり、長々とした腹ごなしのおしゃべりも過ぎ、そろそろ帰る時間です。茶色の長めのお仕着せ首輪をしているベルに、私たち持参の新しい首輪を付け替え、これで本当に我が家の子。フウの腕の中でお茶目に跳ね返っています。さぁ、いよいよ代金を支払う段です。実は私たち、未だ値段を聞いていなかったのです。ペパを介してだったので言われなかったし聞き出さなかったしで、今日まで来てしまったと言う有様。一応ペットショップで売っていたダルの仔犬の値段は相場として押さえてありますが、むろんチャンピオン犬の子ですし、それで済む訳は無いと覚悟はして来ました。小切手帳を引っ張り出し私と目を見合わせた夫、「聞いてみて」と合図しています。こんなにも愛情を傾けて育てているダルを品物として「お代金は?」と切り出すのも何だか恥ずかしいのですが、恐る恐るという感じで、
「あの、いくらって書けばいいのかしら?」と、訊ねました。さぁ、それからが大騒ぎ。
「まさか、俺たち値段を言わなかったって?!」と、マニュエル。
「何て事だ、君たち、あまりに人が良すぎるぞ」
いや、別にそう言うんじゃないんですけど。もたもたしてるうちに私たち夫婦は三人に取り囲まれて、諭されてしまいました。彼らの言う値段は私たちが予想していた金額にピタリと合っていました。
「誰に聞いたって妥当な値段だと言う筈だよ」と、ビセンス。サルゥが横から私を突ついてニヤニヤ笑っています。
「呑気なひとたちね」
「ペットショップで売られている犬とは質が違うんだ。店で売られているような犬の中からは絶対に、チャンピオン犬なんか出てこない、絶対に。良い犬は良い食事と運動、それから愛情によってのみ生まれるんだ」
「愛してやることが一番なんだよ。ところでオーナーは誰の名前にするのかね?」
「誕生日プレゼントだから、フウの名前にしましょうね」
「君がオーナーなんだから、ちゃんと散歩をさせてしっかり面倒を見るって約束できるね、フウ? よし。さぁ、これがワクチン接種のパスポートだよ。血統書のオリジナルはもうじき家に送られてくる筈だ」
「初めて車に乗るからちょっと吐くかもしれないわよ。タオルを持っていく?」
「ううん、古タオルを用意してきたから大丈夫」

adios.jpg古タオルに包まれたベルをフウが大事に大事に抱きかかえ、万が一の時処置できるようにと私も彼と一緒に後部座席に乗ります。
「アスタ・ルエゴ(またね)!」
「アディオス!」
「アデゥ、アデゥ!」
 あぁ、やっと我が家にベルがやって来るのです! 1999年3月20日、春爛漫! ベジェス一家と庭先の満開のミモザに見送られ、二ヶ月半のベルは生家を離れ私たちとの新しい生活へと向かったのでした。

 家までの30分ばかりの道のり、初めて車に乗ったベルはタオルの中で少し吐き、ぐったり。家に着くと早速キリとは違う新しい猫(しかも二匹)の匂いにすっかり興奮気味。我が家の猫どもは可哀想にパニックに陥り、ベルを見るなりキキは玄関に置かれた古い衣装ダンスの下に潜りこんで、フーッ、フーッやっていますし、フェリックスはオスの威厳を見せねばと総毛立ちでなんとか踏み止まっています。
「キキ、フェリ。新しい家族なんだから仲良くするのよ」
「フーッ! フガガッ!」

ま、無理もないか。根っからの臆病者のくせに、その図体のでかさで専制君主気取りのフェリックスは、仔犬だろうが何だろうが自分よりデカイ(しかも自分より家族皆なの注目を集めてる)ベルに強烈なライバル意識を燃やし、バトル開始。見かけよりは意地が悪くズル賢い面のあるキキは、箪笥の下の奥も奥に引っ込んで、復讐するは我にあり、と言った態です。
それに引き換えお友達気分のベルは、彼らはあくまでも遊び相手との認識に基づいていますから、自分とさほど大きさも違わないフェリックスにまず近づき、覗きこむような姿勢をとったかと見る間もなく早速、蛇かと見まがうばかりに鎌首もたげた彼にシャァーッとやられ、びっくり。しかも、シャァーッと宣戦布告したはいいけれど、後すざりで逃げるしか手の無いフェリックスはキキの後を追って箪笥の下へ駈け潜ります。ベルは新しい遊びと解釈して、後を追いかけ箪笥の処で探すのですが、ちょっとでも近づこうものなら猫足型の箪笥下から、孫の手のようなシャム猫の手がピアノの鍵盤を叩くが如くピュッピュッ、ピュッピュッ、シャシャシャッシャシャと出て来るのです。う~ん、あいつらの爪を切っておいて良かった。まぁ、そのうちに何とかなるでしょ。ベルが来てしまった以上、こういう事は気にしても仕方ありません。

ママから離れた初めての夜、ベルは少し寂しげに泣いて、寒そうに丸くなって眠っています。フウは自分の部屋にベルのベッドを持ち込み、そこで寝かせる事に。暖かいママの温みや賑やかだった兄妹の息遣いを恋しがっているのでしょうか。一晩目は泣くかもしれないけど直に慣れるよ、とビセンスが言った通り、翌日からは私たちにぴったりと後を付いて回ります。ソファに私が座ると膝に乗ってきて、心臓の音が恋しいのでしょうか、私のお腹から胸に寄り添って、まるで人間の赤ちゃんのようにして眠るのです。なんて愛おしいのかしら。もう何年も何年も前、未だフウが赤ちゃんだった時の思い出が呼び起こされます。
「フウもこんなだったわ。小さくて、可愛くて。大好きだったわ、こうやって眠るの」
「ふーん。こんなに可愛かったの?」
 なんて長閑に過ごしていると、ライバルが寝静まったのを見計らってキキとフェリがそろそろとやってきました、フェリは私の胸でベルが眠っているのを見て逆上。一声唸ると何と大胆にもわたしの右胸に乗って来ます。あのね、ベルが起きたらどうするの、お前? 怖いくせに。私の上でバトルなんかやらないでよね。しかし完全熟睡型ベルは起きる気配もなく、左に7キロ、右に6キロを抱え身動き取れない私。やれやれ。キキは人間を独占しようと言う気はなく、あくまでも餌をくれればよいと思っている風なので、ベルとの地位争いには我関せず。邪魔さえしなければいい、というところかしら。しかし人間依存度100%のフェリは、我々の関心(特に私)が他に移るなんて耐えられない状況。甘やかされすぎて育った猫は手がつけられない?訳で、幼児期から私が躾た猫ではないので、3歳半で我が家に来た当初からもうひとつ我が家の空気にそぐわないものがあったのですが、ここへ来て俄かに露呈された感じです。最も既に一度、叱られた腹いせに夫の脛に噛み付いたという、窮鼠猫を噛むではなく窮猫人を噛む“脛齧り猫?”をやった事があり、それ以降フェリは夫の信頼を失っています。私に手を出す事はありませんけど。まぁ、これが人間3、猫2、犬1、緑亀1からなる新しい生活の始まりでした。

 約束通りフウが朝の散歩に連れて行きます。歩くというか引きずられているというか、それでも時々うわっと動いたり、右に左にとめちゃくちゃなベルの動きに振りまわされ、フウはぐったり。家の側の広場に行っただけですが大冒険という感じ。今日は早速獣医のペパの処へ、挨拶がてら連れて行きます。ワクチン接種はベジェスの所では未だ1度しか済んでいないので、早急に行わなくては行けません。
「きゃぁ、可愛い!」
「こんな綺麗なダル、見たことないわ」と、ペパの所では大騒ぎ。患者に別なメスダルがいてその写真が壁に張ってあるのですが、やっぱり比べ物にならないと言って、私たちの為に骨をおってくれたペパも喜んでくれます。早速2度目のワクチンをして、3度目のワクチンの日付も設定。
「3度目のワクチン接種が終わるまでは、地面を歩かせちゃダメよ。おしっこやうんちを嗅いだりしてひょんな事から雑菌が入ると大変だから。他の犬とも接触させないようにね。未だとっても弱いのよ、3ヶ月まではね。抱っこして散歩に連れて行くといいわ。それから犬の身分証明書としてマイクロチップを埋め込む事が、今年から義務になったんだけど、6ヶ月検診の頃にしましょう、未だちいちゃいものねぇ、ベル」と、ペパの声は蜂蜜レモンのように甘いのでした。

felix.jpgう~ん、でも3週間後の3度目のワクチン(本来なら満3か月)まで地面を歩かせちゃ行けない?
「今朝散歩しちゃったよ」
「そうよね。ベジェスに聞いてみましょ」 
 ビセンスに散歩の事を相談すると、電話の向こうから元気な声で、
「大丈夫だよ。飼い犬ならたいがいワクチンはしてるし、病気の犬に近づかない限りは平気さ。外へ連れて行ってやった方がいいよ」との返事です。やはり、ここは師匠の声に従う事にします。獣医は全般の獣医であって、ダルの専門ではありません。ダルにはダルの育て方指針がある筈で、それに関してベジェスはプロなのです。但し、やはり他の犬との接触はさせないほうがいいだろうという事で、向こうから犬が来ればすぐに抱っこする事にしました。これも春休みで、家族の誰かが必ず家にいる状態なのが本当に良かったのです。長閑な春の陽射しの中を、よたよた歩きのくせに妙に力のあるベルに翻弄されながらする家族三人の散歩の楽しいこと。ベルったら動かない、と決めたらもう梃子でも動かないのです。その踏ん張りの強いこと。もっとも歩かせると言ってもほとんど蟹バイ状態と言うか、よたよたですが、すぐに疲れて動かなくなるので抱っこに切りかえる事にします。やっぱりおチビながら外は大好き。森への入り口で歩かせていると、向こうから仔犬連れの青年が来ました。すかさずフウが抱っこして、
「未だ三ヶ月ワクチンが済んでいないから遊ばせられないの」と、私が説明をします。この期間に何人かの犬連れの人たちに出会いましたが、みんなに一応ワクチンの件を説明しておきます。だって、相手の目の前ですぐに抱き上げるのって何だか失礼な気がするでしょ? でも、神谷さんが説明してくれた通り、ホントに外でおしっこはしません。家に帰ってきてテラスのトイレまで我慢、我慢。でも思ったよりトイレの躾は簡単で、最初は間に合わずテラス近くのサロンの隅っこでおもらししたりしましたが、そわそわし出したらすかさずテラスに出してやるようにしていたら、昼間はテラスで済ませるように直ぐに覚えました。テラスなら漂白剤とモップで拭けばいいので簡単です。夜はフウの部屋に近い方のバスルームをベル用に暫らく使う事にして、オムツシートを買うまでもなく新聞を敷いておくと、夜中にちゃんとそこでしているのでした。自分のベッドを汚すとかそういうのは、犬ってとても嫌いみたいですね。

 そうこうするうちにベルもお外でおしっこする快感を覚えました。そうなると昼間の間はもうテラスではしません。ちゃんと朝、昼、晩と三回の散歩の時に済ませるようになり、夜は未だ一度だけ仮トイレで。ご成長ですね。手が掛からなくなるとまた可愛さが増すのです。
当然ながら私達の関心は彼女に集中し、面白くないのは猫たち。ただ、キキは本当に家の中にいるノラ同然な猫なので、自分に火の粉がかからない限りはわざわざベルを取って食おうとまではしないのですが、人一倍愛情に飢え易いフェリは、実は心密かに復讐を誓っていたのでした。

さて、ベルが来て1週間。もう慣れてきたかなぁ、と油断した頃合を見計らってか、ついにフェリの反撃の幕が切っておろされました。例の如く家中をコロコロと飛び跳ねていたベルが猫たちを見つけ、退屈を癒す格好の相手とばかりに、衣装ダンスの下へと追い込んでしまいました。ベルは遊びたくて仕方がないのですが、向こうにしてみれば「冗談じゃない」訳で、出て来てくれるのを伏せて待っているベルに対し威嚇的な声で唸っているのが聞こえます。慌てて様子を見に行こうとした瞬間、「きゃん」という声が。引っ掻かれたのです。してやったりという感じで威嚇するフェリの声、彼の手がパタパタと箪笥の下から孫の手型に出てきて爪をむき出しているのが見えます。ベルはと見ると、血が出ているではありませんか!
「いやぁ、大変!」
「あ、お母さん、目のとこが赤いよ!」と、駈け付けたフウがベルを抱き寄せて言います。どうしましょう、眼球に傷でも付いていたら大変です。取りあえずペパの処に電話をしましたが、今日は土曜日、休日担当しかいません。事情を話すと連れて来いと言われ、早速赤い試薬で検査。幸い瞼のところに爪痕があるだけで、眼球には傷がないそうで、ホッ。しかし目の中に赤い薬が残っていて、二、三日すれば自然に消えるとは言われましたが、何だかちょっと……。あーぁ、明日は友人のカッファの家にお出かけだと言うのに。